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 栃木県益子町。田畑や林が広がるのどかな農村風景の中、陶芸家の工房が点在する関東を代表するやきものの町です。濱田庄司が昭和5年に登り窯を築いて以来、民藝運動の拠点としても知られるようになり、現在も作家の感性を生かした温かなやきものが生まれています。東日本大震災では多くの窯元が被害を受けたましたが、復活へ官民共同で取り組んでおり、伝統の陶器市に加えて、斬新なイベントも企画されています。自然と共存し、新しいモノを作る益子のホットな情報を、いけだえみさんがレポートします。

益子だより02
「歴史と物語りが重ねられた場所」

2019-08-22

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 益子で9月に行なわれる土祭の準備ために、今、その展示会場となる建物をひとつひとつ訪ね、その歴史を聞いて歩き回っています。
 観光名所として大事にされているところ、その形を変えて今なお使われているところ、いつからか時が止まってしまったかのようなところもあります。普段何気なく利用しているギャラリーや町の景色の一つとしてなんとなく目にしていた建物も、その歴史を辿ってみると、さまざまなエピソードや今とは違う文化や生活に触れることができます。

 例えば、ギャラリー陶庫の石蔵の天井の梁に筆書きで「紀元二千五百九十二年」とその蔵を移築したときの年が記されていました。さて、2592年とはいつの頃のことなのか。西暦ではまだ2012年なのに、その建物の持ち主との話の中では「紀元2600年が昭和15年だからその8年前ね」なんて言われても紀元が何を指すのかわからず…。早速調べてみたところ、「紀元」とは神武天皇が即位したとされる年を元年とする紀年法で、太平洋戦争前からその最中にはよく用いられたものだったそうです。それだけで昔と今の文化の違いをひしひしと感じたものでした

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 そしてもうひとつは見目陶苑の敷地にある建物。こちらもこの敷地内にたくさんの建物があるのですが、改めて窺うとそれはそれぞれの役目を持った建物でした。かつて益子が“陶器の産地”として栄えていた頃は、多くの職人たちがひとつの窯元に従事し、それぞれ分業で焼き物を製作していたのです。現在のように、ひとりの作家がすべての工程をやるのとは違い、轆轤場には轆轤の職人が、釉薬場には釉薬をかける職人が、絵付け場には絵付けの職人というふうにそれぞれ専門の職人がいたのです。見目陶苑で、今はギャラリーやイベントホール、カフェスペースとなっている建物はかつては轆轤場だったり、絵付け場として使われていた建物で、それは効率よく焼き物を製作するために登り窯を中心に配置されていました。

 こうして改めてそこがどんな建物だったのか、どのようにして使われていたものだったのか、その場に立って話を聞いていると、それぞれに歴史と積み重ねられてきた物語の重みがあって、それを大事に受け止めて次へと繋いでいくことをしなくてはならないという気持ちがどこからか沸いてくるのです。昔を知るということは、今を丁寧に暮らし、未来を大事にできるのではないかと思って、少しでもこれを他の誰かに教えたいという気持ちが生まれたそんな作業の日々でした。(いけだ えみ)

土祭 開催日 2012年09月16日(日)~2012年09月30日(日)
益子の観光情報は益子町観光協会へ。益子町バナー.png

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その六 カフェ ヴィオロン

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その七 noma

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その八*番外編 スターネット大阪~かぐれ

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その九 菅藤造園

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その壱拾 洛風林