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京都は古くて新しい街。変わっていないようで、常に変わり続けている。
古いものがあたりまえのようにあり、新しいものがつぎつぎにできている。
そんな京都の魅力にはまった人たちを、同じく京男になったデザイナー上野昌人さんがレポート。

京都迷店案内其の四拾 KAHO GALLERY(東福寺)

2019-08-22



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KAHO GALLERY(カホ ギャラリー)
〒605-0981 京都市東山区本町15-778-1
電話075-708-2670
営業時間/12時~18時、会期中無休
※企画展示以外はアポイント制になります。
ウェブサイトよりご連絡ください。
◇佐古馨展 2019年9月14日(土)~9月23日(月・祝)


 私が今住んでいるところは、衣笠山の麓にある龍安寺の南、等持院の西の辺りで昔は衣笠村と呼ばれていた。京都美術学校の教師をされていた加藤一雄さんは、『京都画壇周辺』(1984年、用美社)の中で国画創作協会のことをよく取り上げているが、この国画創作協会が現在の国展を開催している国画会の前身であった。創立メンバーは入江波光、小野竹喬、榊原紫峰、土田麦僊、村上華岳、野長瀬晩花の6人の日本画家であり、それぞれ画風は違うものの洋画の影響を受け、新しい日本画を目指した集団だったのは皆さんもご存知の通りである。そして竹喬、麦僊、華岳の3人を始め、山口華楊や堂本印象、木島櫻谷などの絵描きたちが、この辺りに住んでいたのもほんの少し前のことであった。特に竹喬さんは等持院の中に住んでいたので、加藤さんの「等持院」という小文も興味深く読んだ。私は以前、「加藤一雄の手ざわり」という拙文をある雑誌に書かせてもらったが、それほど加藤さんの文章に心酔していた。アイロニカルでありながら、作家たちや京都に対する深い愛情を感ぜずにはいられなかったからだ。そしてそれは岡倉天心とフェノロサによって切り捨てられた、南画と京都画壇への哀惜の裏返しではなかったかと私は想う。

 下保さんと初めてお目にかかったのは、「超京都」というアートフェアであった。後に竹喬さんの孫であり、お父様も下保昭という著名な画家であることを知った時はとても驚いたのであるが。KAHO GALLERYは東福寺の南側にあり、元々はお父様のアトリエであった。中村外二設計による素晴らしい数寄屋造りの建物である。これを拝見するだけでも画廊を訪ねる価値はあると私は想うのだが、徒歩ならば京阪の東福寺駅や鳥羽街道駅から急勾配の坂を登らねばならず、私は比較的緩やかな東福寺の広い境内を抜ける道をゆくことが多い。近辺には伏見稲荷、東福寺や泉涌寺などがあるが、何れも人気スポットなので春と秋にはかなりの人が出る。だから観光の序でに、あるいは画廊に寄る序でに観光というのもなかなか厳しい。この画廊では本気で作品を観る、あるいは作品と対峙するくらいの気構えが必要なのかもしれないと私は感じた。序ででは駄目なのである。
 下保さんは子どもの頃からお祖父さんやお父さんに連れられて、美術館や画廊はもちろん京都の至るところで美しいものに触れてきた。そういう環境の中でものの見方や感じ方を磨かれてきた人だから、美を見つめる眼はとても厳しい。だから展覧会の数が少ないのは下保さんの眼を納得させる作家がそんなに多くないことを証明しているのではないだろうか。下保さんはシニカルな言い回しはされるが、決して気難しい人ではないのである。

 下保さんは1959年に京都に生まれた。同じ歳なので、私が下保さんに親近感を抱いたのも自然なことだったかもしれない。幼稚園から高校までは京都教育大附属、大学は立命館で経済を学んだ。最初から絵筆を持つつもりはなかったが、芸術には興味があったので卒業後、佛教大学で学芸員の資格を取った。卒業後、何必館・京都現代美術館で12年、企画と図録作りを担当することになる。何必館といえば京都を代表するプライベートミュージアムの一つであり、館長の梶川芳友さんの企画の面白さがよく話題に上るところでもある。何必館の杮落としは村上華岳であった。この何必館時代に学んだことは「何がいいのか何が悪いのか、値段ではなくて作品そのものだけを見る目を鍛えることが大切。それは絶対に盗まれないのだから」。それから「こういう照明でこう見せたらカッコいい、というような光の捉え方を30年前にすでにやろうとしていた」ことだという。
 何必館を退職後、佐川急便の美術顧問をしていた方に美術館造るから手伝ってほしいと請われて佐川美術館設立委員になり、準備段階から開館して1年間運営が軌道に乗るまで勤めた。その時に何必館で勉強したことがとても役にたったのだという。佐川美術館もなかなか行きにくいところにあるが、とてもエッジの効いた空間と展示をすることで有名である。
 その後もいくつかのイベントやNPO法人の仕事をしながら、2012年に満を持してKAHO GALLERYをオープンする。杮落としは「数寄屋建築のなかのアート」展であった。
 以後、「須田剋太/抽象と具象」
「BLACK MONOCHROME/白隠・慈雲・仙厓・良寛・華岳」
「BLACK MONOCHROME2/若冲・応挙・良寛・大観・梅原龍三郎」
「有元利男版画展」
「下保昭水墨画展」と、
物故作家の展覧会が続き、翌年くらいから宮﨑智晴・石橋志郎・髙見晴惠らの現代作家へと展覧会が続いていくことになる。

 好きな作家は誰かとお聞きすると、先ず名前が上がったのが速水御舟である。近現代を代表する日本画家の一人であるが、山種美術館にある御舟の作品群はかつては安宅コレクションであったことは意外に知られていない。山種で観た御舟のデッサンは、ニースの海岸で描かれたものであったが、今でも私の脳裏に焼き付いている。私にとっても忘れられない作家の一人である。
 以前お話した時に日本画の良さはどこかとお聞きすると、色の美しさ、つまりは顔料の色の美しさに尽きると下保さんは仰った。それと「上品さ」。それを大切にしておられることは、KAHO GALLERYの展示を拝見するとよく分かるし、細かいことではあるがDMも総て自分でデザインされトータルのディレクションもされている。
 現代美術ならゲルハルト・リヒターよりもサイ・トォンブリーが好きだという。「静けさ」を加えるとモランディもと。「いい作品ほど大声で叫んでいない、小声で語りかけてくるんです。それも見る側が神経を研ぎすましてその声を聞かないと聞こえないくらいの声で。ガチャガチャと大声で喋っている作品は、見る側にとっては五月蝿いだけですよね。そういうものもやらんとあかんのんかな、今は・笑。でもうちの空間には絶対合わないと想う」
 それから職人と芸術家の話になった。「職人からアーチストになるためには哲学が必要だと私は想います。小説家でもやっぱり生き方がすざまじい人の小説って感動するけれど、いくら言葉を熟知していてもそれを弄り倒してる物書きの文章ってつまらない。今の若い作家はテクニックはみんな持ってるし、勉強もしてる。でもテクニックだけでは自分の想いは伝えきれない。私は自分の思想を伝えることができる最低限のテクニックがあればいいと想っていますが、テクニックしかない人というのは一番残念ですね。だから日本ほど職人をリスペクトする国はないから、無理に作家にならなくても職人に徹するというのもいいと想います。日本の職人の仕事は海外でとても評価されていますから」という明快な答えが返ってきたが、下保さんの作家を選ぶ基準が垣間見えるような気がした。

 下保さんは美術商ではあるが、自分でも若い作家の作品をコレクションされている。「楽しいですから、美術品を買って飾って眺めるのって。展覧会をやりたいなと想う作家は先ず買って、使ってみる。やっぱりええわと想う作家もいるし、ちょっと失敗したなっていう作家も当然います。自分が気に入った人の展覧会をやって、お客さんに作品を持ってもらいたいと想う。そうでないと絶対これいいから持っときって、自信持って云えないじゃないですか」
 竹喬さんの孫を掴まえて失礼かと想いつつ、「京都迷店案内」へ出て戴けるかというお願いすると、「名店でなければいいですよ。うちは京都で一番感じ悪い画廊だし、街外れでなかなか辿り着けない場所にあるから」と笑いながら応えくれたのだが、本当はどう想っているのだろうか。京都のおっちゃんの本音はいつまで経っても分からないのである。