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京都は古くて新しい街。変わっていないようで、常に変わり続けている。
古いものがあたりまえのようにあり、新しいものがつぎつぎにできている。
そんな京都の魅力にはまった人たちを、同じく京男になったデザイナー上野昌人さんがレポート。

京都迷店案内その十 洛風林 (上京区塔之段)

2018-04-26

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〒602-0805 京都市上京区塔之段桜木町414
TEL.075-231-6536
*小売ではないので直接の販売はしておりません。
催事・イベントのお問い合わせは上記にお願いいたします。

 京都は柳宗悦が関東大震災で罹災し、疎開した大正13年からの10余年を過ごした土地である。この時代に柳は河井寛次郎や濱田庄二たちと弘法さんや天神さんを焼きものから襤褸まで攫いまくり、昭和8年に東京に戻る時にはトラック数台分の蒐集品があったという。きっと楽しくてしようがなかったのではないだろうか、皆で釣果を自慢しあう様子が目に浮かぶようである。
 誰も信じてはくれないが『サヨナラ、民芸。こんにちは、民藝。』をという本を作るまでは、私は民藝にも柳宗悦にも全く興味が無かった。日本民藝館にはそれまでに数回しか行ったことしかなく、どちらかというとあまり好きな場所ではなかった。所謂モノとしての「民藝」は苦手であったからだ。ただこの京都時代に蒐められたと思われる丹波布や、沖縄でやはり熱狂して蒐めた紅型、芭蕉布や八重山上布などの着尺は本当に美しいと想う。弓浜絣は現在も織られているが、日本民藝館にあるものとは全く違うモノになっている。今では日本民藝館に行くと左奥の部屋の染織のコーナーは一番最初と最後の二回は観ることにしている。そのくらい好きな「民藝」品なのである。以前、鎌倉の古書店で丹波布で装丁された幸田文全集を見たことがあるが、今でも忘れられないくらい美しい本であった。最近はあまり見かけなくなったが、裂帳や縞帳も美しい。蒐めて本にした人のセンスやコンポジションがとてもクリエイティヴだと想うからだ。
 洛北にある洛風林という帯問屋は着物好きならば皆知っている。小売はしていないのだが、同人という珍しいシステムで帯を作って卸をしている。普通は問屋さんが上にあって、織り手の職方は地位が下という構図が普通だ。しかし洛風林は問屋ではあるが昔から数十軒の織屋さんと共同で帯を作っているという。意匠のアイディアを考え、それを帯に落とし込む。素材との兼ね合いで出来ること、出来ないこといろいろと意見の交換もあるだろう。お互いに尊敬し合っていないとなかなかできないことである。
 堀江麗子さんは、洛風林の三代目である。初めてお目にかかったのは銀座の画廊であった。塩繭の美しい反物を織られる勝山織物の勝山健史さんとご一緒で、美男美女の組み合わせにとても驚いた記憶がある。勝山さんも祖父の代からの洛風林の同人なのだ。私は残念ながら旅館の浴衣くらいしか着たことはないので、着物の良さなど分かるべくもない。その画廊では年に一度くらいのペースで洛風林の展示会を行なっているのだが、ある日主人から一冊の雑誌を頂いた。着物の季刊雑誌であったのだが、そこに洛風林が取り上げられていた。たくさんの美しい着尺とともに、洛風林の帯の特集が組まれていたのだが、そこで初めて洛風林の創業者、堀江武さんと「民藝」との繋がりを知ることになる。
 福井の武生から出てきた一人の若者が、西陣で修業し苦労しながらも洛風林を立ち上げた話や、河井寛次郎や棟方志功との交流が記されていた。今からは想像できないくらい大正から昭和にかけてのある時代は、「民藝」がたくさんの人たちに影響を与えていたのだ。京都にもその痕跡はたくさん遺っている。柳宗悦という稀代の宗教哲学者が作り出した「民藝」という思想は、京都でも多くの人たちの心を捉えてはなさかった。京都は柳の「民藝」という思想が醸成された場所でもあるし、上賀茂民藝協団のような新しい工芸の実践の場所でもあったのだ。影響を受けていない筈がないのである。洛風林にも河井寛次郎たちの作品からインスパイアされた帯の意匠も遺っているが、当時の民藝に関わった作家たちは皆おおらかで、意匠もみんなで共有するという考え方をしていたようだ。
 織園都(オリエント)は洛風林の資料館だ。この資料館を管理・整理し、帯の研究しているのが三女の堀江愛子さんである。そこには祖父の武さんと父の徹雄さんが二代に渡って蒐集した貴重な世界の民藝品が収蔵されている。きっかけは趣味であったが、帯のデザインの資料の為にこれらの民藝品を蒐めたものだ。祖父の武さんは京都民藝協会の理事もしていて、父の徹雄さんは協会のメンバーと一緒に海外にも同行していた。この情熱は本当に素晴らしいもので、帯のためなら地の果てまで行くぐらいの覚悟であったのであろうか。それもこれもすべての女性に美しい着物を着て欲しい、生き生きと人生を謳歌して欲しいという願いが根本にあったと堀江麗子さんは話してくれた。
 すでに柳の提唱した「民藝」は日本のどこに行ってもほとんど遺っていない。そもそも「民藝」とは自分や家族、あるいは特定の人のために作られたものだ、と私は想っている。だから相手に対する気持ちが籠っているから、結果として美しいものになるのではないか。それが量産化されて商売となった瞬間に、不特定多数をターゲットとした「工芸」品となった。「美」を商売にしてはいるものではあるが、そこには使う相手を想う心はない。もちろん今でも、そういう心を失わずにもの作りをしている人たちはいない訳ではないが、ごく少数に違いない。その気持ちを忘れていないものが、美しくなるのは必然である。
 三代に渡って洛風林の帯が愛されているのは、「民藝」の心を忘れていないからなのだと私は想う。昔のデザイン帳を拝見したが、今でも十分モダンでお洒落な意匠の帯がたくさんあった。本来「民藝」はモダンでなければならないのだ。そして祖父の武さんの女性のために美しい帯を作りたいという想いは、父の徹雄さんを通じて、三姉妹に受け継がれている。お茶やお花を始め、着物を着る機会は激減しているが、丁寧な暮らしや心を整えるためには、着物は必要なものである。嘗て白洲正子も愛した洛風林の帯は、これからも本物を知る人たちに愛されるに違いない。(上野昌人)