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京都は古くて新しい街。変わっていないようで、常に変わり続けている。
古いものがあたりまえのようにあり、新しいものがつぎつぎにできている。
そんな京都の魅力にはまった人たちを、同じく京男になったデザイナー上野昌人さんがレポート。

京都迷店案内その弐拾九 こっとう画餅洞  (上京区千本今出川西入)

2019-08-22

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こっとう画餅洞(わひんどう)

〒602-8326 京都市上京区今出川通六軒町西入190-16
Tel075-467-4400
営業時間/お昼頃~19時(毎月25日の天神さんの日は10時OPEN) 休業日/不定休 
ホームページ


 知り合いから、ボロ布を集め、それを繋ぎ合わせて襤褸(ぼろ)の作品を作っている方の展覧会の案内状を戴いた。いつものことではあるが、面白そうだと思いながら暫く忘れていた。数日後、街中へ用事があって出かけた時、そういえばあの展覧会はまだやっているのだろうかとふと思い出した。場所も近かったのでギャラリーを訪ねてみると、ちょうど最終日の閉廊間際である。作品はよかったし、作家さんにもお会いできた。帰り途、バスの中で紹介してくれた友人にお礼のメールを送ると直に返事が返ってきた。そこには作家の石川礼子さんが亀岡にある「みずのき」という障碍者の施設と関わりが深く、2000年に丹波篠山で「みずのき」の展覧会の企画をされたとあった。「みずのき」の絵画は世界的にも評価が高く、海外の美術館にも作品がたくさんコレクションされている。そしてそのメールの最後に、石川さんご子息の奥さんは、「画餅洞」という骨董屋さんにお勤めだと認められていた。私は驚くと同時に思った、次の取材先はここにしようと。
 「画餅洞」は、服部元昭さんと朝日久惠さんの二人がされているお店だ。件のお嫁さんが朝日さんなのであるが、私はしばらくこの二人がご夫婦だとばかり思っていた。ところがお二人ともそれぞれ相方がおられ、暮らしを営んでいるという。しかしこの二人の付き合いは長い。
 服部さんは、20代の頃は書き物で身を立てたいと思っていた。それも散文で。一番お金にならない仕事なので、アルバイトをしながら少し縁があった釣り雑誌に、素人の顛末記を書いていたことがある。1、2枚の原稿を書き、1000円でも現金が欲しかったが、送られてきたのは釣りに使う錘(おもり)だった。自分なりに身を入れて書いていたつもりであったが、ほとんど収入にならない日々が続き、最後に詩の芥川賞といわれるH氏賞に応募し、これで駄目だったら作家になるのは諦めようと服部さんは思った。「今、骨董屋をやっているということは、賞にひっかからなかったということですね」と笑ったが、食べるために何かしなくてはとぼんやり考えていた時に、初めて近所の天神さんの骨董市をじっくりと歩いてみた。そこで服部さんは、明治時代の印判の皿と出遭ってしまったのだ。
 その時に、「お兄ちゃん、それ明治」と言われて、服部さんは驚いた。500円で明治の皿が売られているのかと。もともとバイクの旧車など古めかしいものは好きだったが骨董というのは、おじいさんが何百万とかする壺を撫で回しているようなイメージがあったので、当時はあまり格好いいと思えなかった。だが服部さんはそこで2、3枚印判の皿を買い、図書館で調べるとそのお皿が染付というものだと分かり、その王様は古伊万里だと本には書いてある。そこで今度の天神さんでは古伊万里を買おうと心に誓い、翌月いそいそと出かけて行くことになる。
 「江戸時代後期のものとか思うとまた嬉しさが込み上げてきて、古伊万里の傷物とかを3000円で手に入れました。さらに本を読み漁ると、古伊万里の王様は初期伊万里であるということが書いてある。江戸中期の厚みのある初期の伊万里の猪口を、初期伊万里だと説明していた本も当時は多かったので、これを買ってお酒でも飲んでみようと古伊万里を買いに行きました」という。天神さんで初期猪口を見つけたが値段は約6万円、当時の月収が約8万円だったので、朝日さんに足りない分を用立ててもらった。そしてバイクで行ける距離にある、城下町の骨董屋に服部さんは通い始めるようになる。
 服部さんは1974(昭和49)年生まれの43歳だが、今でも実年齢よりは若く見える。当時は27、8だったので、どのお店に行っても歓迎された。何が好きかと聞かれると、背伸びして「初期が少々」などとを言うと、じゃあと初期猪口をたくさん見せてくれた。それを見ていると、「自分の持ってるものと何か違う」ということに気がつく。がっかりしたが、それで嫌になったかというとそうではなく、本物を買って止めよう。ここで止めたら、むなしいままで終わるだけだと服部さんは思ったという。そこでまずは初期伊万里を本格的に勉強し始めたのだが、初期伊万里の完品は皿でも徳利でも値段が高く手が出ないので、陶片ばかり買っていた。印判を手に入れてから半年くらいのことである。
 その頃に一つの大きな出逢いがあった。たまたま入った古門前の古美術・戀壺洞(れんこどう)さんは古伊万里の優品を扱うお店であるが、そのご主人であった福地のお母さんと娘の関川紳子さんにたいへん可愛がって戴いたという。「あなたはまだ若いし傷もんを買うのなら、本当の直しをまず勉強してみたら」、と蒔絵の先生を紹介してくださった。週に一回、仕事の合間を見て、金継の技術を学びながら、伊万里や古陶の勉強をすることになる。なぜなら割れた断片からは本物の土味が分かるからだ。そしてお店では古伊万里の完品をたくさん見せて戴いた。服部さんも朝日さんも骨董の師匠はいなかったので、戀壺洞のお二人にはたいへん感謝している。

 印判を買ってから一年くらい経った時に、まず古物商の資格を取った。軒先で少し売るくらいならいいのではないかと思い、北野天満宮にほど近い朝日さんが借りていた家の軒先で、買ってきたものに適当な値段をつけて販売すると一日で10万くらいの売り上げになった。後から思い返してみれば、若いのに買うのならと業者の方が負けてくれたり、良いものを勧めてくれていたのをまとめて出したら荷物の筋が良かったからではなかったかと。そのお金を元手に月に一度のお店を続けることにしたが、翌月からは全く売れなくなった。そしてこの幻のお店は2年ほど続いたという。
 朝日さんの実家は富山県黒部市にある料理旅館で、今はもう営業していないが百畳の座敷があるような大きなお店だった。西陣に住んでいたお母様がお父様の実家に嫁いで行ったので、今でもこの辺りには親族がいるという。高校を卒業した朝日さんは、西陣の親戚の家から神戸の大学に通っていたが、アルバイト先の飲食店で二人は出会ったというから、かれこれ20年以上の付き合いになる。そして今の「画餅洞」の建物は、最初は朝日さんが住んでいた。
 その後、知人夫婦が借りた後、およそ12年くらい前に安いし、改装も自由ということで服部さんがこの場所を借りることにした。お金もなかったので、真夏を挟んで4カ月くらいかけて二人で改装し、「画餅洞」を始めた。最初は、月に10日くらいしかお店を開けることができず、四苦八苦しながらやっていたので、今のような店の体をなしたのは10年前くらいだという。

 「画餅洞」は、気取りすぎた名前だと今は思うが、「画餅に帰す」というのは好きな言葉でもあり、初めて骨董を買った時に、「絵に描いた餅より旨い物はない」と感じたからだという。骨董は無くても生活には支障はないが、猪口でお酒を飲んだ時の感じや使う時の面白さを伝えたいと思った。
 幻のお店時代を含めると、約15年くらいお店は続いているが、3回ほどピンチがあったらしい。それを乗り越えられたのは、その都度助けてくれる人が出てきたりして有り難かったが、2010年の10月から目白コレクションに参加するようになって、少し自信もついたのも大きいという。同世代が頑張っている姿を見ると刺激にもなるし、京都や地方からわざわざ目白まできてくれるお客さんも増えた。今は信仰や祈りを形にしたものや、古い木のものに惹かれているが、その辺りのものが全くお金にならないので、理想と現実のギャップに悩んでいるという。しかし大変魅力的なものを揃えていると私は感じた。果たして「絵に描いた餅」かどうかは、皆さんの眼で判断してほしいと思う。
 鍋島のコレクターで、業界でも有名なK先生という方がおられる。よく目の眼編集部にも遊びに来られて、「何かいいことなあい?」というのが口癖の方である。この先生が上洛されると、「画餅洞」に足を延ばすとお聞きした。服部さんが、「先生のお目に適うようなような品物は、うちには無いですよ」と言うとK先生は、「何か匂うんだよね、この店」とおっしゃったそうである。
 明治の印判に魅せられた青年は、誰のところで修業したわけでもなく、ものに導かれるままにお店をやってきた。朝日さんという相棒にも恵まれて、これからも自分の直観に従って商売を続けていくことだろう。服部さんのその飄々とした佇まいや漫才師のように淀みなく話す話術は、訪ねて来た客を引きつけてやまないがこのお店の一番の魅力は、そうやっぱり、「何か匂う」ことなのである。