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京都は古くて新しい街。変わっていないようで、常に変わり続けている。
古いものがあたりまえのようにあり、新しいものがつぎつぎにできている。
そんな京都の魅力にはまった人たちを、同じく京男になったデザイナー上野昌人さんがレポート。

京都迷店案内その参拾 御菓子丸  (北区堀川玄似下ル)

2017-12-27

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御菓子丸

〒603-8422 京都市北区紫竹下園生町38-10

営業日、営業時間は下記のサイトでご確認ください。
ホームページ


 兵庫県豊岡市に、菓祖と言われる中嶋神社がある。毎年4月の第3日曜日に「橘花祭」という菓子祭がここで行われ、全国の製菓業者が参列し業界の繁栄を祈願する。ちなみに京都の吉田神社にも昭和32年に中嶋神社より祭神をお迎えし、入り口には菓祖神社の石柱が建てられている。『日本書紀』によると、田道間守命(たじまのもり)が常世国から橘を持ち帰ったことから、これを菓祖として祀っているという。 4年前の4月に友人に誘われ、この菓子祭と前夜祭を見るために私は豊岡を訪ねていた。菓子祭前夜祭は豊岡市のメインストリートを中心に、全国からお菓子屋さんがたくさん軒を連ね、なかなかの賑わいであった。イベントもいろいろと行われていたが、そこで京都から来ていた「日菓」の杉山早陽子さんと内田美奈子さんに出会ったのである。その頃、「日菓」はちょうど『日菓のしごと~京の和菓子帖』という本を上梓し、新聞やマスコミに良く取り上げられていたので、私もその名前を聞いてはいたが、実際にお目にかかったのはそれが初めてだった。
 翌年の十日戎の日に知人たちで集まり、大和大路松原を西に入った洋食屋で新年会をおこなった。帰り途、せっかくだからとゑびすさんにお参りすることにした。そこでばったり杉山さんとお会いしたのだが、その時一緒におられたのが今のご主人の松林俊幸さんである。折に触れて出会う機会も増えたある時、私は杉山さんに思いついたことを聞いてみた。「どういう意図でお菓子を作っているの?」と。すると、「その時その瞬間の自分の気持ちを、お菓子にして伝えたいんです」と杉山さんはさらっと言われたが、その言葉は印象深く私の裡に残っていたのだった。

 杉山さんは三重県伊勢市に生まれた。大学に入るために京都に来たが、選んだ学部は自分の居場所ではないと感じた杉山さんは、4年の間に自分のやりたいことを見つけようと思った。もともとピアノを弾いていたので、バンド活動をしたり、京大のジャズ研に入り西部講堂で一度演奏をしたこともあった。しかしそれも違うと思い、服飾の道に進むことも考え、大阪の専門学校に体験入学したりもした。結局写真部に入って居心地も良かったが、写真家になりたいわけでもなかった。これからの人生をどうしようかと思っていた時に、たまたま『和の菓子』という写真集と出遭うことになる。虎屋や川端道喜の生菓子や笹屋伊織の干菓子がポンと一つ、白い紙の上に乗っているだけの写真だったが、「食べ物ってこんな見せ方があるんだ」と杉山さんは衝撃を受けた。暫くその本のことが頭から離れなくなり、日常の写真を撮るように食べ物で何か表現できないかと思うようになる。それがきっかけで和菓子に可能性を感じ、杉山さんは初めて自分の進むべき道が見えた気がした。

 2006年の春大学を卒業後、俵屋吉富に製造希望で入社したが新入社員はまず販売を体験する。そこで接客のノウハウを叩き込まれた。そしてその年の夏に、「日菓」の相方となる内田さんと出逢うことになる。内田さんはアルバイトだったが、「この人絶対面白い人や」と思って声をかけると、彼女も『和の菓子』に影響を受けて、埼玉の実家から京都にやって来たという。一緒に喫茶に行ったりしているうちに、二人は意気投合した。その年の秋に京大西部講堂で、当時行われていたボロフェスタで和菓子の屋台を出したのが「日菓」の始まりだった。ずっと菓子を作りたいと社長に直談判していたが、なかなか叶わず待てなかったと杉山さんはいう。「でも普通、働きながら日菓やること自体がNGですよね」と笑ったが、この時期に「日菓」の展示会にも足を運んでくれていた「老松」の太田達さんとの出逢いがあり、それが縁で杉山さんは2009年に「老松」に転職することになる。
 「日菓」という活動をしていることを前提に「老松」へ入社し、社員で3年、アルバイトに変わって3年在籍した。内田さんも「長久堂」に転職していたので、お互いの情報や技術を持ち寄って、「日菓」をやっていたという。地方の方から、「京都でそんなことやって怒られたことないの?」とよく聞かれたが、太田さんを始め皆さん「日菓」を受け入れ、面白がってくださった。だからここまでやってこれた。たぶん京都じゃないと成立しなかったのではないかと杉山さんは語ってくれた。

 相方の内田さんが結婚して1年間お休みしていた時に、杉山さんは一人で「日菓」をやっていたが、「茶菓花器事(ちゃかぎごと)」という会に参加した。知り合いの陶芸家や茶人、花人と一緒にやっていくうちに、形だけではなくて、食べた時の味の表現ということが気になりだした。例えば薯蕷(じょうよ)饅頭に点があり、そこに味があったら面白い。ただの点ではなくて、それにより饅頭の香りを引き立てることが出来るとか、「茶菓花器事」ではそういうことを実践したり、お客様の目の前でお菓子を作ったりもした。そこで今までと違う表現方法や、自分のやりたかったことと違う世界があることに気づき、新しいお菓子をを創りたくなってしまったという。
 「日菓」はくすっと笑えるお菓子をコンセプトに創作していたから、「こんな世界もあったのか」という感じがした。全く違うことをしている感覚がしたので、「日菓」という名前でやっていると、どうバランスを取ったらいいのかと悩んだ杉山さんは、相方でもある内田さんに相談した。すると「一人でやってみたら」と背中を押してくれた。やがて「御菓子丸」という名前とロゴも決まったが、なかなかその一歩が踏み出せずにいた。「今までなんやったん」と思われるんじゃないか。本当にこれでいいのかと、それから2、3年は考える日々だったという。世間的には本が出て、これからという時だったので、出版社の方にも申し訳ないという気持ちは今でもあるが、自分の気持ちには嘘はつけない。そして内田さんとの出逢いがなければ「日菓」もなかったし、大きな出逢いであったと杉山さんは感謝している。

 今の理想は、仙人が雲を食べているような「食べてるようで食べていない、けれど記憶に残るようなもの」を作りたいという。モチーフは植物や自然の物。テーマは「死」を置き換えた言葉で「はかなさ」とか、川の流れを「うたかた」とかに例えることができる。「今この時、一瞬を一緒に生きている。人間として生まれてくるのは一緒だけれど、同じ時代に一緒にいるということはとても不思議なことだな、と思います。百年後にはみんないないし、そんな想いを形にできたらいいなと」
 一方で頭の中では食感とか味が想像できているのに、技術が追いつかず再現できていないというジレンマがあるという。「自分の引き出しを増やしていかないと、和菓子という技術だけでは追いつかないこともあります。和菓子の世界は、和三盆で色や形を変えて、季節感を表現しますが、今やりたいことが食感だったりすると、和三盆でバリエーションを作るということにも限界がある。今ある技術を磨くということも大切ですが、もう少し新しい技術とかアイディアも考えないといけないと思っています。たぶん私が欲張りなんだと思うのですが」
 今、杉山さんは大阪のippo-plus(イッポ・プリュス)の守屋里依さんと一緒に「景譜」という会をおこなっている。毎回テーマを言葉で決めて、お茶会でもお菓子の会でもなく、お茶とお菓子から広がる風景を重ねていくので、「景譜」と名付けた。二人で話し合いながら言葉を繙き、お客様にも感じた風景そのものを重ね合わせてもらうという趣向だ。やりたいことはカウンターの「御菓子丸」、お客様の目の前でお菓子を作るということ。「景譜」でも実践しているそうだが、その場にいる人たちは息を呑むような感じだったという。「やはりその人のためにお菓子を作るということは直線的なものなので、美味しいって言って戴けると、何ものにも代え難いと思います。すごく嬉しくて、心地良いです」と杉山さんは語ってくれた。

 学生時代に彷徨いながら偶然手にした写真集が『和の菓子』であり、そこから紆余曲折しながら辿り着いたのが、「景譜」という境地なのかもしれない。2017年10月14日、「御菓子丸」は店舗を構えてスタートすることになるが、10年後に杉山さんはどんな風景を描いているのだろうか。