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京都は古くて新しい街。変わっていないようで、常に変わり続けている。
古いものがあたりまえのようにあり、新しいものがつぎつぎにできている。
そんな京都の魅力にはまった人たちを、同じく京男になったデザイナー上野昌人さんがレポート。

京都迷店案内其の参拾四 三弦屋・野中智史(宮川町)

2019-08-22

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三弦屋・野中智史

〒605-0831 京都市東山区山城町284
電話090-1342-0831
JEAN_CORTI_88@q.vodafone.ne.jp

 京都に住んでいるといろいろな出会いがある。三味線屋の野中さんとは、ちょうど私が京都に引っ越して来た頃なので、かれこれ10年前に初めて出会ったことになる。当時、寺町のあるお店で朝、アルバイトをしていた野中さんと知り合ったのだが、まだ20代半ばであった野中さんが三味線作りをしているとは何と風流な、流石は京都だなと私は思った。それからこの10年の間に、何度か高座を拝見したり、街中でばったり出会ったり、祇園祭の宮本組を取材する時に間に入って戴いたり、緩やかなおつき合いをしてきた。もともと三味線を作ったり、弾いたりする方なので歳に似合わず落ち着いておられるのだが、昨年久しぶりにある集まりでお会いした時に、そう言えば私は野中さんについて、何も知らないことにはたと気づいたのだった。
 野中さんは、宮川町のはずれの「あじき路地」に住んでいる。京都にお住まいの方ならよくご存知だろうが、図子(ずし)と路地(ろうじ)という細い道の呼び名がある。他所者の私が知ったような話をするよりも、故杉本秀太郎さんの文章に「図子と路地」(『洛中生息』1976年、みすず書房)という名文があるので、そちらを読んで戴ければと思う。図子と路地の違いや、それらが果たした役割もよく分かる。西陣にある「三上家路地」と並んで有名なのが、「あじき路地」である。なぜ有名かというと、特にモノ作りに携わる若者が多く住んでいることと、名物大家さんがおられることである。住まいは長屋なのでもちろん冬は寒く、夏は暑いが、どちらも人気で空きを待つ人が沢山いると聞く。

 野中さんは1982(昭和57)年、京都市内に生まれた。お父さんの仕事の都合で高校までは大分に住んでいたが、お母さんの実家が京都であったため、野中さんとお母さんは折にふれ京都に帰って来ていた。お祖母さんは芸妓さん・舞妓さんを始め花柳界の人たちと付き合いがあったので、野中さんが物心ついた頃には暮らしの中に三味線の音がごく普通にあったという。そして高校生の時には三味線のある流派のお名前を戴いていたが、後で三味線造りを生業にすると決めた時にお名前は返上した。そんな野中さんが進学を考えた時、京都に戻るのは必然であった。
 高校生にして、地方(じかた)をされていたことに私は驚いた。今では音響が良くなったので音源を使うことも珍しくないが、リーマンショックが起きる前は三味線や唄などの地方さんを呼ぶのが普通であったという。そこで三味線でいうところの三枚目(いわゆる三枚目という言葉はここから来ている)、四枚目、上調子というような端っこで若手がやるポジションで野中さんは弾いていたというから、すでにその頃から三味線の魅力に取り込まれていたのかもしれない。「三味線が身近な楽器やったんで、作りたいな、作れるかなと何となく思っていたのですが、だんだん三味線を作りたいという気持ちが、自分の中で強くなってゆきました」と語ってくれた。当時、京都造形大学の副学長は市川猿之助さんだったので、ご推薦してくださる方もあったというが、いくつかの選択肢の中から選んだのは当時、園部に出来たばかりの京都伝統工芸専門学校だった。園部はお父さんのご先祖の出身地でもあり、単なる偶然ではなかったのかもしれない。そこで指物を2年間学ぶことになるが、2年目に今でいうインターンで広河原にある三弦店にゆき、三味線造りのいろはを叩き込まれた。そして卒業後、そのままそのお店に就職することになる。

 三味線は楽器である。だから一番大切なのは良い音が出ることである。そのために木は硬い木を使っている。一番三味線造りに向いているのは紅木(こうき)と呼ばれる木で、次に紫檀(したん)、練習用の三味線には比較的リーズナブルな花梨(かりん)が使われるという。「紅木は色味も良くとても綺麗な木目が出るので、三味線造りには一番良い木だといわれています。漆を塗る前に砥石をかけるんですが、柔らかい木やったら砥石をかけるとモキモキするんですけれど、木が硬いので磨けば磨くほど艶が出るんですね。共鳴部分の太鼓はまた別作業になりますが、皮張り以外の全工程を一人で作ります。この皮張り職人は、比較的数はいますが、三味線本体を造る人は、全国でも20~30人くらいしかいません。これが多いのか少ないのか分かりませんが」、と野中さんは説明してくれた。
 前回取り入上げた「西陣絣」もコツコツ糸を織る仕事は根気がいる地味な作業で、やりたいという人がいてもなかなか続かない。三味線もまた、地味な手作業の積み重ねによって出来上がる。木が硬いので機械で削ると、パキッと割れてしまう。そこで力を入れる塩梅を見極めながら、地道に削って磨き上げてゆく。一棹造るのに、1日8時間、週6日みっちり作業して、約1カ月かかるという。太鼓の部分は膠(にかわ)で張り合わせてあるが、それも皮の張り替えや修理をすることを前提に造られている。一度造ると何十年と使えるので、当然修理の仕事は多くなる。京都には五花街もあるから三味線の需要が多いのだろうと私は思っていたが、意外にも京都より大阪や名古屋のほうがお店の数も多く、注文は近畿全般からあるのだという。

 野中さんは大将と呼んでいるが、今のお店で大将にお世話になって15年になる。大将が引退して息子さんが跡を継いだ頃に、番頭さんが倒れてしまった。そこでお礼奉公という訳でもないが、今は自分の仕事と大将のお店と半々で仕事をしている。夜は10年ほど前から、お座敷に上がるようになった。知り合いのお茶屋のお母さんから頼まれて、常連のお客さんの前で一所懸命に三味線を弾いたら、とても気に入られて今でも京都に来るとお声がかかるという。そこから感じのいい地方のボンがいると口コミで噂が広がり、他のお茶屋さんやホテルのラウンジなどからもお呼びがかかるようになった。
 私が初めて野中さんと出会ったのは、その頃のことだ。言葉を選びながらも、誠実に受け答えしてくれるところは10年前と何も変わらない。しかし、言葉の端々に祇園で暮らし、そこで生きる人間としての矜持が垣間見える。先に書いた宮本組とは八坂さんにご奉仕する氏子の集まりのことだ。祇園祭というと山鉾巡行にばかり目が行くが、実は八坂神社の神事(かみさまごと)なのである。この宮本組は7月1日の吉符入りから一カ月に渡りいろいろな行事を通じてご奉仕することになる。そして野中さんもその宮本組の組員なのである。

 野中さんには2つの顔がある。1つは黙々と三味線を造る職人の顔。もう1つは夜の高座で三味線を弾きながら唄う地方の顔だ。取材に伺った時、三味線の音が微かに流れていたが最近は文楽の人間国宝の三味線よりも、「かしまし娘」や「横山ホットブラザース」のような音曲に惹かれているという。楽器である以上は音の善し悪しを聞き分ける必要性はあるだろうが、野中さんのように三味線職人がみな高座に上がるとは思えない。ただほんの少し前までは、暮らしのすぐ側に三味線はあった。嘗ては嗜みとして長唄や義太夫があり、娯楽の一つとして小唄や都々逸があったが、昭和という時代が持っていた、豊穣な庶民の文化や風俗というものは急激に薄れてきている。このままでは近い将来、「お座敷遊び」というのも死語になるのかもしれない。世の中から艶っぽさがどんどん消えゆく中で、地方の三味線は貴重な存在である。野中さんにはぜひヨボヨボになるまで艶っぽい唄を弾いてほしいものだが、その頃にはたぶん私はこの世にはいないのである。死ぬ前にぜひ一度野中さんの三味線で「お座敷遊び」が出来たら、この世に思い残すことはないかもしれないとふと想った。