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皆さま この器ご存じですか

田中 孝(摘み・活け・撮り・語る)


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器:最大径31.4cm




note : この器、上縁に3つの穴があります。この穴に藤蔓などをTの字型に編み、持ち手を付けて使うようです。苗代川は美しい所です。竹藪が多く、あちこちに共同の深井戸がありました。墓は朝鮮式も少なくありません。
 下の写真は政幸老最後の窯の唐草壺です。彼は紋様が全盛期のように伸び伸びとはいってないし、真っ黒にあがっていない。置いてゆけと言われたが、強引に持ち帰ったもの。彼の形見です


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(22)麦の肥やしかけ


 お若い方は「肥やしって何だい?」とおっしゃるかも。肥料のことである。
 古い話だが、戦時中は肥料難で食料が足りない。誰もが飢えた。石油もないから、引越などは馬車を使う。馬は遠慮なく道の真ん中で糞をする。家庭菜園に絶好の肥料である。女子学生まで飛び出して、まだ湯気が立つ利休饅頭みたいなのを掴むのであった。
 人間様の糞は……、やはり大切な肥料である。農家では、大壺を畠に埋めて、街から集めてきたのを溜め、折々に撒く。収穫を街の人は喜んで食べるのだ。自産自省である。
 戦後、いい化学肥料が出てくると、肥溜め壺は不要になる。室町期あたりの肥溜め壺は、骨董界で結構売れる。全く臭い掘り出し物である。

 半世紀も前の頃、ぼくは薩摩焼発祥の地、苗代川をよく訪れた。ここは秀吉の朝鮮出兵の際、薩摩の殿様が連れて帰った陶工たちを住まわせ、日本人と隔離した丘である。
 当時、黒薩摩の名工が二人いた。田中政幸老は、その一人である。彼は伝統の貼り付け紋の大鉢などを作り続けていた。世はプラスチック全盛。重くて壊れる陶器は売れないのに、彼は老いて力尽きるまで止めなかった。ぼくは、その根性をひどく敬愛していた。

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 ある日、彼の庭の片隅で妙な片口を見つけた。「麦の肥やしかけよ。若い頃、散々使ったものだ」。貰って帰った。以前、大蔵大臣の池田勇人(のちの総理)が議会で暴言を吐いた。新聞には「貧乏人は麦を喰え」といった見出しが躍っていたのを思い出す。
 花は麦、根締めは都忘れと山茱萸(さんしゅゆ)である。(福岡市在住)