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野辺の民藝

田中 孝(摘み・活け・撮り・語る)






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花は土佐水木と椿



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高さ15cm足らずの小壷だが、
手に取ってみると力溢れる強さがある。
黒釉の上にソバ釉を二重掛けしているようだ。
彼が自家用に作った唯一の小物だろう

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(14)苗代川の気骨者



 ぼくは天邪鬼だ。本は「あとがき」から、目の眼誌は「京の花合せ」から読む。同誌4月号を冒頭まで読み進むと、尾久彰三さんが苗代川について書いている。半世紀前、ぼくも通いつめた窯である。懐かしい。
 当時、黒薩摩の大物を作るのはただ一人。田中政幸老だけだった。直径1m近い植木鉢やこね鉢など、売れない作品が山積みされていた。
「わしは大物専門でな。民芸店は、小物をやれ。収入は十倍だよという。わしも若い頃はカネ、カネとあくせくしたが、もう歳だ。カネのために、大物を捨てるのはいやだ」。
 柔和な顔だが、根は強い職人気質の持ち主である。以来、泊まり込んで語り明かす楽しみが何年も続いた。
 あるとき、突然、彼から電話が入った。「もう力が尽きた。大物は挽けない。今度の窯で終わりにする」。黒の大物終焉の日が来たのだ。窯の日程を教えてくれと、ぼくは頼んだ。
 年の瀬も迫る頃、再び電話。「今、焚き終えた。途中天候が悪化した。多分失敗だな」。仕事納めの日、あいにくの大雪だったが、ぼくは銀白の苗代川へと走った。
 彼はせいせいした顔でいう。「やっぱりダメだった。焚いているとき、ひどい湿気がきた。もしよく出来ていたら、もう一窯、と欲が出たかもしれん。これですべて終わったよ」。
 その時、彼の身体は癌に蝕まれていたのである。入院、続いて訃報が届いた。
 お墓は苗代川台地の北端、日当たりのよい斜面にあった。朝鮮墓も散見され、苗代川の苦しい歴史を語る奥津城だった。
 別れ際、彼の家の仏壇にも手を合わせた。ふと見ると、彼の作らしい花生が位牌に添えてある。「これ、お形見に下さい」と夫人に乞うた。それが左の写真の花生である。ぼくの思い出深い宝物だ。(福岡市在住)


苗代川 鹿児島市の西北、日置市市来町にある薩摩焼の里。慶長の役の際に島津軍が連れ帰った陶工は流浪の末、苗代川の台地に集められた。そして日本人との結婚を禁止され、朝鮮服を着るなど、日韓合併(1910年、明治43年)まで、さまざまな制限を受けたといわれる。司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』は、陶工の望郷の念を描いた名作だ。
 苗代川で作られていたのは、沈寿官に代表される白物と、庶民の台所で使われていた黒の荒物だった。水甕(みずがめ)、こね鉢、せいろう、摺鉢、徳利……、あらゆるものが作られた。戦後、高度成長期に入ると、これらは台所から一掃されてしまう。要するに民芸の消滅である。その最後のひとりが田中政幸老だった。
奥津城(おくつき)上代の墓の意味


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こちらの植木鉢には苗代川伝統の唐草の貼付文がある。
力強い作品なので、中に電熱器を入れて風炉に仕立てた。