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野辺の民藝

田中 孝(摘み・活け・撮り・語る)



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(19)続・小鹿田初見参(昭和30年代の頃)




 ぼくは前回の「小鹿田初見参」で、小鹿田は300年近く、開窯以来の技法を守り続けてきた、と書いた。なぜだ、と疑問に思われた方も少なくあるまい。

 小鹿田は今でこそ日田市から行くのが便利だが、戦後10年近く経った1954年ですら、バーナード・リーチは日田彦山線の大鶴からタクシーも通れぬ山道を登っている。山中の秘境なのである。これでは、世の変化に応じて変わりようもない。

 日田からのバス便が開通したのは、その10年ほど後で、それも最終便の運転手と車掌さんは、各家が持ち回りで宿泊させる条件付きで、やっと実現したのだと聞いた。

 実は、この頃から小鹿田をめぐる環境は変わり始めていた。戦後の民芸ブームが閉幕したからである。伝統の民窯、小鹿田は全国の注目を集めた。従来は製品を売るのは雑貨屋だったのが、民芸店に変わったのである。しかし需要はあっても、小鹿田は増産できない。常に品不足である。値段も上がったことだろう。茅葺きの家が黒瓦の御殿に建て替わり始めていた。

 なぜ増産ができないのかを説明しよう。小鹿田は二つの川が合流する地点の僅かな平地に、15戸が身を寄せ合って暮らしている。最近まで山中の秘境だったから、食料も自給自足である。陶家は9軒。うち7軒が共同窯を使っている。だから団結が凄い。陶土採取から9軒が合同であたる。土地がないから、窯元は増やせない。継承は一子相伝に限る。釉薬に不可欠な灰は、不純物の混入をきらい、自宅のかまどに頼る。などなど、土地柄、人材、原材料ともども増産への制約が多いのである。

 ぼくが感心したのは、15軒の集落の1軒が店舗だったことだ。酒屋さんである。14軒で酒屋さん一家を養うとは、さすが九州男児。剛気なものである。(福岡市在住)



写真上)民芸ファンに人気がある青土瓶。
漢方薬煎じに長期間使われたらしい。
中)小鹿田にいくたびに泊めていただいたお宅
築百数十年。すきま風は寒かったけれど、
こんな環境に泊まれるなんてすばらしい事でした。
下)小鹿田集落入口のバス道路。狭い土の道なので、
雨上がりなど車掌さんが途中で降りて、
路肩が安全か点検しながら通っていました。
土地が少なく、痩せていて、自宅の周辺で作っている野菜も
収穫量は平地の半分だったとか。
肉類は昔は狩りをしていたようですが、今ではトラックで日田から
売りに来るし、近くには養鶏場があります。