野辺の民藝
田中 孝(摘み・活け・撮り・語る)
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写真上)蓮の蕾から外したばかりの蓮弁。
優美、繊細さはまさに神秘的である。
下)仏前に供えるよう、経筒に活けてみた。
上の蓮弁はこの蓮の中の一枚である。経筒は平安期のもの。
右)ひと山一万円で買った中のひとつ。
実物は金が輝いて写真とは比べものにならない美しさである。
机上飾りで楽しんでいる。(長さ74ミリ)
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(24)蓮弁
タイトルには、いささか困ってしまった。目の眼の読者の方ならば、蓮弁といえば、仏像の光背や台座を荘厳にする、あの蓮弁を思い浮かべるに決まっているからである。
今回の蓮弁は、現代の蓮弁。それも翌日は萎れてしまう蓮弁をご覧いただこうという、珍中の珍を思いついたからである。
骨董に戻るが、平安や鎌倉期のいい蓮弁は、ぼくとは縁がない。数年前に、奈良で平安の蓮弁を見たが、いささか大きすぎた。正直な話、大きすぎたから買わなかったのではない。金が無かっただけのことである。今までだって、いい蓮弁だなと思うのに限っていえば、資金面で手がでなかったものばかりだ。
その点、愉快な思い出もある。仏教美術を扱う店では、たいてい、玩具箱がある。売り物にはならないが、捨てるわけにもいかない仏像などの断片が入っている箱なのだ。
めぼしい買い物がないときは、この玩具箱をあさるのが結構な楽しみである。数点選んで一万円ほど置いていけば、店主も納得する。
奈良の骨董屋で、玩具箱の中から真二つに割れた小さな蓮弁を見つけた。欲目で見ると平安のものらしい。長年、香で燻されて、分厚い煤の層に包まれて表裏とも真っ黒だ。
宿では毎晩煤を拭き取るのが仕事になる。二晩目には、僅かだが金箔が見え始めた。でかしたぞ。
骨董の楽しみ方はさまざまだ。
ところで、盆になると仏に供える蓮をいただく。この蓮はお寺の池の蓮とちがって、小ぶりである。そして毎日一番外側の花弁を剥いでやるのが、色あいを保つ秘訣である。
今、ぼくが外した蓮弁をじっと見つめていると、自然の造形がいかに繊細優美であるかに、驚倒されてしまったのである。これを皆様にぜひご紹介したい、というのが今回の企みなのである。(福岡市在住)